「八重の桜」第26回感想

2013/07/08 09:09

「八重の桜」第26回包囲網を突破せよ NHK 2013.07.07放送

「200人亡くなったんだって」
職場でそう言われた時、咄嗟に反応できなかった。
この同僚とは意見が合わないことおびただしく、大河の感想を話しても互いに首肯しつつ聞くことはあまりないのだが(苦笑)、原因がそこにあったわけではない。

ワタシは歴史物語は好きだが、一次資料を読み解くのは大変苦手だ。
ワタシにとって資料は、数字であり、記録である。というか、記録でしかない。
そこから、自身で物語の息吹を感じ取るというか、創り出すことができないのだ。

下敷きとなる既存の物語があれば、全く別。
一度自分の中に立ち上がった物語は熱を帯び、実際に存在したであろう人物の人生や時代にあれこれと思いを巡らせる。
勿論、それがフィクションであることは重々承知しているので、どこまでが作者の創作なのかも考慮しつつ楽しんでいる。
この状態になれば、一次資料にある数字の羅列も、ただの記録ではない誰かの生きた証として、足跡を遺す。
歴史はロマンだっ! と目を輝かすのもこの時点である。

要は、想像力はあるものの、創造力に著しく欠ける、という事なのだな。

…前置きが長いが、冒頭の「200人」が想像できなかった、ということなのだ。200人分の生と死が想像できなかった、と言うか。(あ、この200人が妥当かどうかは、今回確認してません。あくまでも同僚の言い分です)
たぶん、幕末会津史を知らなかったワタシにとって、このドラマは根底となる物語になるのだろう。


辛い物語が続く中、7月に入ったことでOPENINGの映像が変わった。
ワタシは幾重にも重なる運命を連想していたのだが、HPの説明によると「一枚の画(え)の中に「同じ物体の異なる一瞬」を掛け合わせるスリットスキャンという手法を使い、生命のスパイラル(らせん)を表現したそうです。」とのことで、とても美しいと思う。(作者は映像作家の伊東玄己(いとう・げんき)さん)


前回、死にものぐるいで入城を果たした八重たちだが、入城できなかった者もおり、その様子が描かれることで物語の幅が増す。
ひとりでも守ろうと長刀を振るう黒河内と同列に、日向ユキは「とばっちり」を恐れかくまうことを拒否される。
誰一人として怨嗟を口にすることのない会津武士の結束の固さが、浮き彫りになる。

この戦いが始まって以来、誰一人として怨嗟を口にしない。
後悔は、あった。
だが、誰も原因を他に求めようとはしていない。

京都の首脳陣の先読みの甘さとか、外交のまずさだとか、ただ悼むことしかできない君主だとか。
もっと言えば、薩長が卑怯なのだ、とか。

どうしてこうなってしまったのか、という苦悩はあっても、その責を他に求めようとする態度がまるでない。
会津武士とは。
武士とはそういうモノなのだと。
それを美しいと思い、自分もそうありたいと思ってしまう。

だが、実はそれこそが会津をここに追い込んだ最大の原因なのかもしれない、とも思う。
起きてしまった事を愚痴らない潔さと、同じ過ちを繰り返さない為の反省とは、紙一重なのかもしれない。

仕事をしていてもよく考える。
誰かに責任をとらせようということではなく、そのミスを繰り返さない為の点検は必要なんじゃないのかと。
だが、それを追求するとどうして特定の誰かが浮上してしまい、うやむやにされてしまう事が多くて。

それと同じような危うさを、武士道の在り方に感じずにはいられない。
いろんな意味で、正論を正論として吐くのは、大変に難しいことだ。


さて、前回の悲劇は白虎隊であったが、今回のそれは娘子隊である。
誉れ高い中野竹子の戦死、そして、神保雪の自刃。
黒木メイサが、凜とした竹子の気性をよく演じている。何より目を引くのは、その涼やかな姿である。

それじゃ、ダメだ。

意気込みは、よくわかる。建前はなく、その気概込みでの長刀の稽古であったろうことは、よくわかる。
平時の稽古ならば、それで良い。
だが、出かける先は戦場である。
どうしたら役に立つことができるのか、と考えれば、女の姿で戦場にでることがあり得ようか。

それが会津武士という、250年という戦いのない時代が生んだ精神美の代償なのか。

女だから。
戦場にたっても、巴御前は助かった。
この、武士という美学が極まった時代に、たとえ戦場にあろうと女の首をとる男があろうか。

だが。
女だから。
受ける恥辱もあるわけで、それは戦場という究極の欲望の場において、避けることはできない。

己の美を通すためではなく、如何に有効に戦うかを優先するのならば、八重の姿は正しい。
彼女たちの決意は美しい。だが、そこには超えることのできない壁があり、それがこの悲劇を招いている。


西郷頼母にも、同じものを感じる。
その言を真に実現させようとするならば、他にもやりようはあったろう。
己と容保の関係性を考えれば、その諌言が受け入れられないであろうことがわからなかったか。
家臣の中で孤立する前に、やらなければならないことがあったのではないか。
相手に折れることを求める前に、己が折れる妥協点をみつけることはできなかったのか。

起きてしまったことを真っ正直に己の運命として受け入れ、決して己を、信条を曲げることなく生きる。

容保も、頼母も、竹子も、みな同じだ。
その中にあって、八重だけが己の信念のために立ち位置を変えた。
その一点が、ワタシはスゴイと思う。

八重だって、いいとこばかりじゃない。
三郎を失った悲しみも理解できるし、相手を憎む気持ちもわかる。だが、鉄砲隊であった三郎だって、普通に考えれば敵を倒しているわけだ。それが負の連鎖であることは、わかるはず。己の悲しみを、当時の価値観の中で断ち切ることができなかった。
当時の価値観、という意味では、女の指揮下に入った男達の方が、ある意味、よほど柔軟であるといえるかもしれない。

それでも、価値観に固執することなく、己の立ち位置を変えることができるというのは希有な能力であると、ワタシは思う。

容保にしても。
その指揮能力の無さは哀しいくらいで、ひたすらに、家臣の死を悼むことしかできない君主である。

だが、翻ってみれば、その「家臣を悼む」という一事が故に、これほどに藩士たちが戦うのであり、こういう藩主を戴いた家臣達は幸せであったのかもしれない。
容保の真っ赤な目を見る度に、そう思えてならない。

ラスト、彼岸獅子での大蔵の入城は、久方ぶりの明るいシーンで良かった。
ワタシはこのエピソードを知らなかったので、ああ、物語が始まった頃の彼岸獅子のあれこれはこれの伏線だったのかと事ここに至って初めて気が付いた。

大蔵、いい男になったねえ。
奥方をむぎゅっするのも、何だか目頭が熱くなった。
八重との再会も、「おかえんなんしょ」「はい」、それだけが心に沁みた。


会津の苦難はまだまだ続くが、来週を待ちたい。



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「八重の桜」第25回感想

2013/06/26 01:50

「八重の桜」第25回白虎隊出陣 NHK 2013.06.23放送

ここ一月ほど重い内容が続いている。今週はとうとう白虎隊出陣となった。
以前にも書いたが、この物語は会津視点で語られる為、官軍、特に薩長は美しくは語られない。
幕末史といえば、龍馬に代表されるように「官軍」側から描かれる事が多く、会津や奥羽列藩は旧習を改めることのできなかった、時代に取り残された存在として描かれる。身内であるはずの新撰組を描いても、そこには「浪士」と「藩士」という身分差に伴う蔑みが介在してしまうため、新撰組の「士道」を美として描けば、会津の存在はその陰となる。
白虎隊の物語となるとまた違うのだろうが、残念ながらワタシは小説もドラマも知らない。
友人には、確か「白虎隊」という大変素晴らしいドラマが存在するから必ず観なさい、と言われているのだが、未だ…である(汗)

前回、福井のご隠居松平春嶽が、岩倉&大久保(?)を相手に、あなた方の目指す新政府は最初から間違っている、といったたんかを切っていた。
山本覚馬も牢で言っていたが、会津はどこで間違ったのだろうか。

幕府=徳川宗家に忠誠を誓い、義を重んじ、赤心をもって事に当たってきた。
藩主容保をはじめとする彼らの真っ直ぐな態度は、あの混沌とした時代の中にあってさえも、大変に美しい。
彼らは間違った事はしてこなかった。己の保身も欲得も顧みず、ひたすらに忠誠を尽くした。

どうしてこんな事になってしまったのか。
会津藩士、皆の顔にそう書いてある。

政治家がいなかったのだ。
清濁を併せ呑み、時代を見通す事のできる「政治家」を、会津藩は養成することができなかった。

それは、250年という江戸時代の中で、幕政の中心の最も近くに存在してきた譜代大名という特権を享受してきたツケと言えるのかもしれない。
いつお取りつぶしになるか分からない不安と、幕政から遠く追いやられ、様々な苦役を言い渡されながらも250年を生き延びてきた薩長のような外様の持つしたたかさを、会津は遂に獲得することができなかったのだ。

官軍として会津に攻め込んできているあの長州は、ほんの少し前までは幕府に「征伐」される対象であった。それをさせなかった「政治力」が長州にはあったということだ。

決して、会津が悪いわけではないのだ。
会津に息づく武士道の美しさは、他に類をみない。江戸250年を支えたのは、その真っ正直さであると言っても過言ではないだろう。もののふの鑑として、彼らの信条は称えられるべきものであった。

だが、美しいだけでは、悲劇を防ぐことはできない。できなかった。

どちらも、必要なのだ。清も濁も、併せ呑むことのできる大きな器が。
容保がそれを持っていたら。
或いは、側近にいたなら。
会津の悲劇を、ここに至るまでに防ぐことが可能だったかもしれない。
だが、そういう人物が生まれるには、あの風土はあり得ないであろう。
となれば、ある意味これは歴史の必然だったのかもしれない。
それが、悲劇というものの正体なのかもしれない。

兎にも角にも、戦いは起こり、悲劇は生まれた。
これ以上の悲劇はもう観たくないと願いながらも、やはり記憶に留めておかなければならないのだろうと思う。


そういう緊迫感と焦燥と決意を、このドラマは良く表現していると思う。
真っ直ぐに墜落するような容保を演じる綾野剛さん。
溢れるほどの赤心を持ちながら、会津にも、新政府にも利することのなかった頼母を演じる西田さん。
そして、思いがけないほどにしっくりと存在する八重、はるかちゃん。

しんどい場面が続くなぁと思いつつ、目を離してはいけないという気になる。

これは、ドラマである。
勿論、フィクションである。
そして、史実でもある。

リアリティとドラマ性と事実を取捨選択した結果を、ワタシは享受している。
忘れちゃいかんのだろうな、と思いながら。

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「八重の桜」第21回感想

2013/05/28 00:13

「八重の桜」第21回 敗戦の責任 NHK 2013.05.26放送


死を美化するような描き方は好きじゃないし、危険だと思う。でも、今回、神保修理の死に際し、ワタシは「美しい」と思った。

鳥羽伏見の戦いと呼ばれる戊辰戦争が始まったが、誰もが知っている通り勝者は薩長=官軍である。
それを会津側から描くのだから、悲惨極まりない。
今回、3人の死者が出た。

まず、現場の戦いで会津藩大砲奉行の林権助が死亡。
続いて、八重の弟、山本三郎が銃弾に倒れる。
そして、神保修理は切腹。

敵の砲弾と相対する中、飛び交う銃弾をモノともせず、一歩も引かず、被弾した後も真っ直ぐに前を睨んだまま、林は逝く。NHK公式HPの人物紹介には「江戸に送られる船中で没した」とあるが、ドラマの中では路上で既に没しているように見えた。混乱を最小限に抑える為の現場指揮官として、とても見事な最期であると思う。立派な上官であり、男であった。

彼の死によって、会津の武器がいかに旧式であるか、作戦的にどれほど不利であったかが、まざまざと印象付けられた。

対する三郎は、少年の死である。
これもまた、悲痛としか言いようがない。
「山本家の男として、兄の代わりに戦いたい」と立派な口上を述べるが、銃弾降り注ぐ中、彼の思いを支えたのは姉・八重である。
彼は立派な会津武士たるべくそこで戦い、散った。未だ誰を守りたいという想いさえなく、つまり彼には彼が守るべき家族が存在しない─というと語弊があるが、家族の中にあって、彼はまだ「守られる側」だったということで、それほどに、若く幼い。彼はまだ戦場に立つほどの年齢も経験も重ねてはいなかった。

ワタシ達は、追う側から追われ狩られる側へと立場を変えた会津の悲劇を実感する。

神保修理の切腹は、彼が武士であったことを見せつけた。
武士とは腹を切ることができる人間の事であり、そういう「責任の取り方」ができる人のことであり、
100万人都市の江戸の1割と言われる非生産人口である武士の存在意義は、その一点にあるのではないかと、ワタシは思ってしまった。
切腹を礼賛しているわけではない。
だが、今ならば、誰かが首をくくったところで、それで「責任」をとることはできない。

修理には、家族よりも自分よりも優先しなければならないものが存在しており、それは多分に自分で選び取ったものではなく、当時の価値観として植え付けられたものに過ぎないものの、それを受け入れ見事に体現することのできた素晴らしい人物であったのであろう。

修理と容保の間には、言葉にしなくてもわかりあえるものが存在した。

自分の判断ミスを部下が負い、命を捧げる。それを受け入れるしか無い容保の立場もまた、一層哀しい。

彼らは何のために戦い、誰を守る為に戦っているのか。
時代の流れ、うねりと呼ばれる何かが、会津を巻き込む。

死んでどうなる! 生きろ! 汚名を負ってでも生きて生きて生き延びて、その先にこそ何かがきっとあるはずだから。

今ならば、きっとそう言う。だが、修理は死を選ぶ。それは彼が武士であったから。
このときの為に、彼らは存在したのだから。
そういう彼らを、ワタシは美しいと思った。


というわけで、睡魔が襲ってきたのでごめんなさい。
続きはまた明日。。。。

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「八重の桜」第18話感想

2013/05/06 01:05

「八重の桜」第18話 尚之助との旅 NHK 2013.05.05放送

今まで会津の歴史というのを知らなかったので、この大河ドラマは新鮮な気持ちで見ていたんですが、やっぱり何にも知らないと伏線一つわからないので、ちょっと資料を読んでみました。といっても簡単なもので、著者さんの主観が大分入っているように感じましたので、史実的正確さはちょっと?ですが、大まかな流れはつかめたように思います。

川崎尚之助は八重の最初の夫ですが、彼に関しては資料がほとんどないみたいですね。
八重自身も、尚之助については言及してないみたいですし、この時期の二人の関係を内縁関係と見る方もあるようで。
なので、今回の尚之助との旅とかは、たぶん、大河的創作部分なんでしょう。(違ってたらすみません)

でも、会津の様子--地形や風土、当時の雰囲気等々を上手く語っていたと思います。


京では、長州と薩摩が手を組み、勤王から倒幕へとはっきりと意識が変化している時期で、薩長と幕府側との駆け引きが、幕末史ではひとつの山場となります。
倒幕側を引っ張るのは、薩摩の西郷、長州の桂で、今回は大久保一蔵だけでなく、薩摩の大山巌や土佐の後藤象二郎なんかも登場してました。反町さん扮する大山は会津戦で肩を負傷しますが、それは八重が撃ったもだとか、また、後に会津の山川家の末子・捨松(咲子)と再婚したりと会津に縁の深い人です。とはいえ、今現在は薩摩と倒幕の事しか考えてないみたいですが。

大山は、登場した時に、壊れた銃を安価で大量に仕入れたが、今は数が大事、壊れてるものは直して使えば良い、と西郷に言ってましたが、なるほど、上手いエピソードの使い方ですね。時勢を的確に捉えることのできる聡い頭脳と、大胆な人柄が面白いように表現されてましたけど、やっぱり吉川西郷の存在感が半端ないので、押され気味になってました。

で、同じ事を考えていたにも関わらず、タイミングの悪さに臍をかむことになるのは、会津の覚馬です。
彼の買い付けた銃千挺はどうなるんでしょう。きっと間に合わないんでしょうね…
で、ええじゃないかの騒ぎの中西郷の姿を見つけるものの、目が悪化し、動けなくなってしまう。
西島さんの覚馬、ちょっと面白いですよね。西島さんご自身がとてもお若く見えるので、八重との年齢差も違和感も感じることなく、蘭学や時勢を読む能力の鋭さ、柔軟さ、そして会津武士の気概を体現するような存在でありました。ただ、ここの処、迷いや弱さが育ってきてますから、ちょい口先だけのような、実の伴わないそんな印象がちらちらと見えてまして、来週は時栄さんの登場ですからね。強さと賢さと弱さとが同居しているような、面白い人間を演じているなぁと思います。

会津パートに戻りますと。
八重と尚之介の旅は、前回、「まさか一緒に来るとは…!」と呆れる尚之助の一言で終わってましたが、蓋を開けてみれば、八重の方が足腰丈夫なようで、尚之助は「待ってくださいよ、八重さん」と情けない事言ってました。(笑)

この夫婦が面白いのは、こういう処なんでしょうね。
時代の流れとして、八重は尚之助に対し家長として接してはいますが、八重はやはり型破りな人ですし、それを尚之助が上手に生かしている感じですね。演じているのがはるかちゃんなので、華奢なイメージがついて回りますが、八重の力自慢みたいな要素は結構取り入れられています。結婚式でも、酔いつぶれた新郎を担いでましたし(笑)。
尚之助は、八重の力を分かっていて、それを生かそうとしている。八重は型破りな女性ですが、それに勝るとも劣らないほどに、尚之助も尋常じゃありません。どう誹られようと自分の思うように行動する、という点で似たもの夫婦ですが、八重は自分自身を抑えない方向に行動するのに対し、尚之助は八重の行動を認め、如何にそれを高められるか、という方向に行動します。
尚之助のこういう行動は、保守的な風土の中では「悪妻」を持った夫というより、案外「情けない、頼りがいのない家長」と映るかもしれませんね。
時代劇の中においては現代チックな夫婦関係ですが、その辺、あまり突飛に感じないというか、現代の価値観持ち込まないで欲しいなぁ、と思わないあたりが、演出、脚本、役者さんそろって上手なんだろうなぁと思います。

二本松での鉄砲指南のシーンも、二人の呼吸が合っていて、なんてーか「良い夫婦だなぁ」と思ってしまいましたよ(笑)。

で、帰郷すれば尚之助の士官が許され、十八人扶持となり、やれめでたや。とはいえ、長男覚馬も次男三郎も留守にしている山本家を思い遣って、居候のままで過ごす、というとてもできたカタでございました。
でも、やっぱり長谷川さんは、黒い紋付きよりも、白い羽織がお似合いですねぇ。
ですが、財政難の折、尚之助の具申は受け入れられません。やはり、先立つものは必要なんですよね…。


もう何度も書きましたが、幕末史の面白さというのは、下級武士の活躍によって歴史が転換したという点だと思うんですよね。でも、この大河はそこの処にあまり重点がおかれておらず、当然会津中心主義なわけですが、こんな風に面白く、切迫感を持って描くことができるのだなぁと感心してます。
かと思えば、やっぱり岩倉具視の陰謀要素は外せないわけで、錦の御旗を「作るんだよ、これから」と不適に笑ったとこがありましたけど、錦の御旗が出たことで「朝敵」を作り上げちゃったわけですしねー。

密勅の方は、まあ慶喜に先を越されちゃうわけで、それだけの頭脳がトップにいたにもかかわらず、江戸時代はああいう形で終わりを告げ、会津の悲劇が訪れることになるわけです。結局の所、慶喜と容保では、最後まで守りたいものが違っていたんでしょうね。
まあ、それは維新後に西郷と大久保らが対立した事から見ても分かることで、何かを成すときに、保身等の思惑によって最終目的がどこに設定されるかをすりあわせるのは、難しいことなんでしょう。

そうそう、またオープニングの映像が変わりましたね。桜を使っていることは同じなんですが、これもまた綺麗でした。

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「八重の桜」第13回感想

2013/04/18 19:28

「八重の桜」第13回 鉄砲と花嫁 NHK 2013年03月31日放送

だんだんと京の政治情勢が回り始めており、会津藩には重苦しい空気が纏わり付いています。そんな雰囲気の中、八重と尚之介のドラマがホッとするような明るさを醸し出していました。

八重の明るさと言えば、オープニングで桜色の傘を持った八重がくるりと背を向けるシーンがありますが、あのシーンの彼女の明るさは綾瀬さんならではだと思うんです。闇の中走る八重の姿も彼女の生き様を表しているんでしょうけど、あの明るさもまた彼女の気質を表してるんじゃないかと思え、毎回楽しみに見ています。

さて、前回の蛤御門の戦い以来やたら目立つのは、やはり西郷隆盛でしょう。
吉川さんが演じてますが、やたら存在感ありますね。このところ羽織の「シュッ」という効果音は目立ちませんが(笑)、薩摩藩の変心ぶりを爽やかに気持ちよく見せています、よね?

つくづくこのドラマはこういう描き方が上手いなと感心しますが、幕末の薩摩藩が変心する様を、西郷ひとりに焦点を当てることで鮮やかに描き出しています。
西郷という人も、下級藩士の生まれでありながら、前藩主・島津斉彬から大変可愛がられ重用されたものだから、現藩主・久光からは疎んじられ、新政府がなった暁には西南戦争ですからねぇ。なかなか辛い人生を送っている人ですが、吉川さんの颯爽とした風情が大変素敵で、老獪な政治家とか芋侍なんてイメージとはほど遠く、理知的で情のある「漢」を体現しているようですね。

その西郷に転換点を与えたのが、勝海舟で、こちらも生瀬さんがいいですよねぇ。西郷に共和制を説き、幕府なんて熟れすぎた柿だと握りつぶしておきながら、「俺はしゃべり過ぎたか?」って、あなた。
勝が説き、西郷が感銘を受ける。
「何をすべきかはっきりわかった」と口にする直前、にやり、と笑う。←ここ! いやー良かったねー。
そして、その西郷の変化に、驚く勝の表情がこれまた、上手い。

事実か、創作か、ということではなく。
会津の物語の中にありながら、このワンシーンで薩摩の変心を描いて納得させる描き方。いや、すごいなぁと思うんですよ。
西郷の器の大きさとか、政治力とか、国(日本と薩摩両方ね)を思う気持ちとかがちゃんと分かるから、その後の変化がいやらしくないんですよね。逆に、幕臣側が手玉にとられたのがよく分かって。

ああ、こういう人が「政治家」なんだなーと思えるわけですよ。
こういう老獪と紙一重の怜悧な柔軟さ、先を見通す力、判断力、そういうものが欠けていたことが、会津藩の悲劇だったんだろうな、と。

で、これまた対照的なのが一橋公。もーこの人、ハマりすぎっ(笑)
容保にあーだこーだと愚痴ってるのを見ても、百才あって一誠なし、と言われた二心殿まんま演じられてて、もー笑っちゃいます。

容保公の真っ直ぐな悲壮さが痛々しく、家老・田中土佐の「わしらは一体何と戦っているのであろう?」という言葉が一層辛く響きます。

で、肝心の八重と尚之介ですが。
実はワタシ、ラブシーンは苦手です。てか、こういう告白のシーンは照れくさくてしょうがない。まだ、ベッドシーンのがましかも? ドラマだろうとアニメだろうと、もう画面を正視できないんですけど。いい年したオバサンがすみませんねぇ(苦笑)

ちゅーことで、秋月が「尚之介を会津に縛り付けておくのはどうか。情に囚われず、自分の生き方は自分で決めてほしい」と覚馬に頼まれたというシーンに、佐久間象山落命の報をかぶせた辺り、にくい演出だと思います。
互いに自分が「異端」である-というのは言い過ぎかもしれませんが、「普通」でない事は承知していて、相手の幸せを望む気持ちが強いだけに、自信が持てない。けれど、「鉄砲」を間にそれぞれが唯一無二の存在であることはわかっていて、そこに長谷川さんの飄々とした風情と綾瀬さんの持つ華が生かされていて、言葉を交わしては近づき、離れる、そしてまた歩み寄る、というやりとりがとても効果的で良かったなぁと思います。

見ていて照れまくりますけどね、いいシーンでした。

で、一気に嫁入りですが。
お久しぶりの西郷頼母。西田さんが上手いな、と思うのは、現役家老だったときの溌剌とした英気が感じられないところです。確かに会津を思い、心配もしている。佐川や秋月と言った藩士からも慕われ世話もしているらしい。けれど、ぼそりとつぶやく一言が「頑固で融通の利かない」年寄りのものに聞こえる。京の情勢をわかっていて、郷里の藩士を諭しているにしてはちょっとな…という雰囲気。
めまぐるしく変化する政情に対して、変わることのできない頑固さという気質を上手く表現しているように思えます。

ま、その頼母の案で、秋月家から嫁入りする八重。うふふ、綺麗でしたね。^^
綿帽子ってのは本来防寒具だったと思いますが、桜の季節は使うのかな? それともこの時代はもう花嫁衣装として定着していたのかな? と余計な事を考えてしまいました(笑)


そうそう、ひとついいなーと思ったシーンがありまして。
京で梶原の家を覚馬と大蔵が訪れたシーンで、梶原の妻・双葉が、挨拶の為に体の向きを変えた時に、覚馬も大蔵もそれぞれがそれに応えたでしょう。様式といえば様式なんでしょうけど、こういう所作っていうのは格式の高さというか居住まいの見事さを表しているようで、いいなぁと思いました。


…第15回を見たのに今頃これを書いてますが、追いつくのかなーとちょい不安になってます。^^;
それでは、また。

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