『雷桜』読みました。

2011/08/06 10:19

『雷桜』著:宇江佐真理 角川文庫 2004/02 p383 ISBN:978-4043739011

雷桜 (角川文庫)雷桜 (角川文庫)
(2004/02)
宇江佐 真理

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一昨年くらいから「勝手に歴史・時代小説フェア」というのを自分でやっておりまする(笑)。
始めた頃は、歴史小説自体を読むのが司馬さん以来久しぶりという状態でしたから、なかなか読み進まなかったのですが、最近はこのジャンルに脳みそが馴染んできて、物語の世界へ入るのが早くなってきたので、読んでいて気持ちがよいです。

宇江佐真理さんという著者から選んだ一冊。
彼女の代表作といえば『髪結い伊三次捕物余話シリーズ』の方なのかもしれませんが、昨年映画化されたこともあり、こちらを手に取りました。管理人、宇江佐さん作品は初めてです。

★以下ネタバレしますのでご注意下さい。

運命の波に翻弄されながら愛に身を裂き、一途に生きた女性の感動の物語。

と、amazonでは紹介されてましたけど、ワタシはこの物語をそうは読まなかったけどな。
「日本版ロミジュリ」というのが映画のコンセプトだそうなので、たぶんそちらが本流の読み方なんだとは思いますが。

美しい物語。

読了後の印象を一言で語るとそうなります。
一面を覆い尽くす桜の花びらとすくりと立つ桜の老木の映像が、鮮やかに思い浮かびます。

桜という花に、樹に、人生の儚さ・想いの切なさが重なり、ままならない運命の中逞しく生きた人々の生き様が描かれています。
主軸はもちろん、主人公ふたり-遊&斉道の恋物語ですが、そこに親子・兄弟・主従と言った背景に埋もれてしまいがちな関係から派生する想いと生き様が、巧みに描かれていました。

遊、という名の女性が主人公です。
彼女は、まだ乳飲み子であった頃にさらわれます。十余年の年月を経て彼女は帰ってきます、山で育った「狼女」となって。
狼女というのは、要するに躾の全くできていない世間知らずな女子、という意味で、野生のエルザなわけじゃないです。忍びの者である男に育てられたので、躾は皆無ですが、山で生きていく術は身に付けているのですね。
ですから家に帰ってきた後も、すんなりとはいきません。もめ事はたくさんありますが、家族は常に彼女を肯定的に受け止めています。でなければ、彼女は生家で生きられなかったでしょう。

一方、相手役ロミオは斉道という名の、第11代将軍家斉の息子ちゃんです。
気鬱の病が高じて、家臣までも傷つけてしまうほどの我が儘ぶり。
ですが、そこには「高貴なお子」としての悩みや苦しみがあるわけです。

確かに、身分違いのロミジュリですな。
恋物語自体は「甘く切なく」は描写されていません。淡々と、あっさりと、描かれています。ふたりが恋に落ちた瞬間も、ワタシには衝撃的には見えませんでしたね。「ものめずらしさ」に惹かれたのがきっかけでは?

では、何が面白かったかというと、この二人を取り巻く背景の描写です。

まず、何故、幼子の遊がさらわれたのか。
その謎は最後の最後までひっぱりますが、班境にある村が時の趨勢のままに所属を変えていく様とそこにまつわる黄金伝説が存在します。

この物語の特徴なんでしょうが、悪人はほとんどでてきません。
それぞれに事情を抱えながらも懸命に生きている人間ばかりです。
が、それでは時代劇になりませんのでね(笑)、欲の皮のつっぱらかった悪人というのも少数だけ出てきます。それが、この黄金伝説に絡むというわけです。

幼子の遊がさらわれたふた親の、そして、兄たちの心情は辛く語られますが、「娘は生きている」と信じる強さも併せ持っていて、誰かが挫けそうになると他の誰かが支えます。家族というのはそういうものでしょう。
親が子を支えることもあれば、子のひたむきな想いが親を支えることもあるわけです。

でも、結局一番強いのは「母親」でしたけど(笑)
時代によって様々な家族形態がありますが、日本の家庭ってのは結局の処「母親」が一番強いんだと思いますね。
大和撫子だろうと、嬶天下だろうと、見た目が違うだけで中身は一緒だと思いますわ(笑)。
たぶん、それが自然な姿なんでしょう。自然とうより必然かな。

で、庄屋である親が息子をどう育てるか。
家を守る役目の長男と、武士となり立身出世していく次男と。それぞれの迷いと選択。
世間と親子の情も、ひともんちゃくあっての描き方が面白いです。

百姓である次男は、結局武士になることを選択します。
選択をすれば、それをしたことで変わっていくものと、変わらないものがあるわけです。

この家族に共通している強い想いのひとつは、瀬田村という「郷土」への愛着でしょうか。
瀬田村が一番美しい。ここが一番。
江戸という都会の魅力を知りつつも、それに惑わされない意志持ち主であります。
兄も弟も、違う生き方を選択をしつつも、その想いは終生変わらなかったんじゃないでしょうか。
それがこの物語を地に足の着いたものにしている一因ですね。

誰もが「身分」と「世間」に縛られて生きています。
一見、遊はそこから自由であるように見えますが、彼女でさえも、それらと無縁であることはできないのです。
なぜなら、それが「生きる」ということだから。

人生に「恋」がなければ、さぞつまらないものになるであろうとは思います。
でも、人生は恋だけで彩られているわけではありません。
親子の愛、男女の愛、そして「主従」というものへの愛。

次男・助次郎が奉公する清水家は御三卿の家ですが、その彼の心情の変化も大変興味深いものでした。
彼は生来情の篤さを持っていますが、それ故に斉道への想いは複雑です。
我が儘な殿様に仕えること。
それが彼の矜持に反するわけですね。でも、その家臣・榎戸角之進への恩を踏みにじることはできない。
そうして接するウチに、我が儘な殿様は彼にとってかけがえのない主と変化していく。

彼ら家臣が、主である斉道を諫めることができないのは、事なかれ主義なわけでもなく、お為ごかしでもなく。
斉道であるが故の気鬱を理解し、けれど、どうしてやることもできず、彼らには「そう」することしかできなかったのだと、ワタシは思う。
そんな「世間」のしばりの強さが、「個人」よりも大事なのかと現代ならば一笑に付されてしまう事かもしれませんが、彼らを貶めることはできない。著者はそういう関係を決して「馬鹿げたこと」としては描いていないとワタイは感じる。そうするしかなかった、というのは事なかれ主義とは違ったものだ。家臣ふたりは、心底、主である斉道を想っていた。
最良の方法が分かっていてもそれを選択できない、ということは、人生でままあること。
それは何時の時代だってかわりはしない。

そのどうにもできない関係を救ったのは、価値観の転換だった。
つまり、遊という「狼女・おとこ姉様」の存在だった。

そう読むのが正しいのだと思うけれど、ワタシは、「世間に受け入れてもらえない自分の想いを持った二人が、互いを認めることで癒し合った」んじゃないかと思う。

恋をし、ふたりは結ばれる。
けれど、世間は強い。

斉道には、斉道の歩むべき道があり。
遊には、それを助けることはできない。

遊は、側室になることを拒み、斉道は正妻を迎え、二度と遊に会うことはなかった。

悲恋、でなかったら。
もし。
ふたりが一緒に暮らすことを選んでいたら、ふたりは幸せになれただろうか?

答えは、ない。

なぜなら、ふたりはそれを選択しなかったのだから。

だから、斉道が最期の床で「遊はどこじゃ」と呟いたのは、ワタシはNGだと思う(笑)
厳しくてゴメン! 
でも、それは、最期まで口にしちゃあかんと思うゾ。
美しい思い出よりも、一緒に生きてくれた妻を呼ばんといかんがな。

あ、でも、妻は一緒に生きてきたという何よりも強い事実があるからな。
最期の一言くらいは、遊に譲ってやってもいいかもしれん。(笑)



物語の最後は、年老いた榎戸角之進(斉道の家臣)が瀬戸村に赴き、遊に別れを告げることで締めくくられる。
思い通りに生きた。
そう、胸を張れる人生ではなかったのかもしれない。
けれど、それもまた、何者にも代え難い人生であったことは確かであり。
思いのままにはならなかった人生と戦い、今、静かに退場しようとするその姿がこの物語を一層切ないものにしていると思う。

面白い物語だった。
今度は映画も見てみようかな。


2011.08.06 ポトス



【参考までに】

著者:宇江佐真理

1949年10月20日生まれ。
北海道函館市生まれ。函館大谷女子短期大学卒業。
OLの後、主婦。1995年、『幻の声』でオール讀物新人賞を受賞しデビュー。同作品を含んだ連作短編集『幻の声 髪結い伊三次捕物余話』は直木賞候補にもなり、注目される。
(出典:wikipedhia 宇江佐真理





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