『八重の桜』第6回感想

2013/02/11 23:11

『八重の桜』第6回 会津の決意 NHK 2013.02.10放送

なかなか面白かったです。

日本て小さな島国ですけど、やっぱり広いんですよね。
幕末を黒船来航(1853年)から戊辰戦争終結(1869年)の間と考えると、幕末の動乱と呼ばれる期間はおよそ16年。
その期間に数多の人物が名を挙げ倒れ、人と事件が網目のように絡まりあいながら時代は進みます。
(ちなみに、今回は1861-62年の話です)

その政争の中心は、ご存知のように江戸ではなく京都です。
京都から会津まで何キロあるんだろう? 800キロくらいかしら。
確かドラマの中で覚馬が距離か時間を言っていたように思いますが、とにかく遠いです。

震災の時に思ったんですよね。
あの春にワタシは1000キロほど西へ行きましたが、その時、計画停電をはじめとする東京の騒ぎが空騒ぎみたいに感じたことを覚えています。
だから、漠然と感じていたワタシの北への感覚は、たぶん違っているのだろうな、って。
こんなにインフラが発達した現代でも、距離ってあるんだな、と改めて思ったわけです。

幕末もそうだと思うんですよね。
京での騒ぎは、その熱をして確かに全国を駆け巡ったに違いないけれど、
でも、温度差は絶対にあったわけです。

ワタシは前回まで、覚馬の未熟さを指摘していましたし、実際そういう一面はあると思いますけど、
でも、あの黒船を実際に見た人間と、そうでない人間の間の絶対的な差というものをもうちょっと考慮してもいいかなと思いまして。

覚馬が優秀だから。
だから、あれこれを為したのだと漠然と思っていましたが、そこには彼しか持ち得なかった焦燥があったんだと思うんです。
黒船への恐怖と畏敬という衝撃は、それを知らぬ者とは共有できないほど強い想いとして彼の中に存在していたのかもしれないな、と。
彼を突き動かす焦燥の原点と言えるのかもしれません。

俺が伝えなければならない。他にそれを為す者はいないのだから。
なぜなら黒船を実際に見たのは自分だけだから。
そういう強い想いが彼を動かしていたのではと思うんです。

そして、もしかしたらそういう伝聞による想像力・共感力というのは、あの頃の方が現代よりも発達していたのかもしれません。
土地にも時間にも縛られている時代でしたから、誰もが簡単に移動できるわけではありません。

だからこそ、
伝える方は、自分の見聞だけが唯一のあるいは重要な情報源となるのだということを自覚していて伝えたでしょうし、
聞く方には、そこから何かを得なければならないという謙虚さ・必死さをもって聞いたのではないかと。
特に政務に携わるような人間ならば、決定的な危機を避けるためのアンテナが鋭敏であったのではないかと思われるのです。

実際の映像を見る事ができるわけではありませんから、たとえ情報を得ても何が起きているのか想像できない、という人間だって少なからずいたはずです。
ワタシだったら、たぶんそうだろうな、と(笑)

そう考えると、日本全国の地方の藩にあって(参勤交代があったにしても)、よくあれだけの動乱に対処できたものだと改めて感嘆した次第でして。

一橋慶喜とか松平春嶽とか島津斉彬とか吉田松陰とかそうですもんね。
容保にしたって、京へはまだ行ってないでしょうし。
みんなすごいなぁと改めて感じたのでした。

てなわけで、四賢侯のひとり・松平春嶽登場。
この春嶽、めちゃ腹黒そうでした(笑)
勝海舟や坂本竜馬が主人公なら違った描き方になるんでしょうけど、反対からみれば成る程こうなるわけで。
彼は、懐刀の橋本佐内を安政の大獄で失っていますしね。

勝海舟がいつの間にやらアメリカから帰ってきていて、これからは京だ、と築地の操練所で榎本武揚と、
さてどんな器やらと話してました。
勝海舟という人物は、自身徳川の禄を食みながらも、俯瞰的に物事を見ることができるんですよね。面白い人です。

肝心の春嶽と慶喜は、ふたりして復権したことを「実に迷惑千万」なんて悪態ついてましたけど。
(笑)
で、腹黒春嶽が「血筋、家格、忠誠心を併せ持つ者…会津中将ですかな」と。

容保も新設された京都守護職という役目は、断り続けました。
会津藩の財政的にも、地理的にも、役目そのものも藩の存続を危うくする程に危険なものだという認識があったからです。
もちろん、家臣も反対します。
幕府の要請に答えた結果、取り潰された藩などいくらもありますから。

その辺のあれこれは、NHKのHPで解説してくれてますので、そちらへどうぞ。
 八重の桜HP > スペシャル > 歴史解説 > 会津藩と京都守護職

最終的に容保が断りきれなかったのは、初代藩主保科正行の会津家訓(かきん)十五箇条を春嶽に持ち出されたからです。

大君(たいくん)の義 
 一心大切に忠勤を存ずべし
 列国の例をもって自ら処(お)るべからず
 若し二心を懐かば
 即ち我が子孫に非ず
 面々決して従うべからず

ってコレですね。
別の物語なんですけどね、前にも書いた『天地明察』の保科正行の幕政への想いが思い起こされましてね、
秀忠の実子である自分が(母親は正妻ではない)火種にならぬよう、
そして、徳川幕府の背負わねばならぬものへの期待と自負が込められたものだと思います。

それが、こうして200年のちの子孫を悲劇へと追い込むもになろうとは、悲しい巡り合わせでありました。
そう考えれば、容保もまた、その後の会津の運命を悲観してはいたでしょうが、この決断がいつの世まで影響を残すことになるのか考えたくなかったでしょうね。

最近は大河ドラマでもよく泣く男性が登場しますが、この容保の涙はぐっときました。
最初の面持ちにも、悲愴感と決意が良く現れていて、しかしながら!(←台詞、適当) とあくまで反対する西郷頼母もさぞ苦しかったことかと。

ワタシ、知りませんでしたけど、桜田門外の変の後、彦根藩って処分されていたんですね。
えげつない…と思いますけど、それができなくては徳川250年はもたなかったんでしょう。

「大君の義!」
と容保が口にした瞬間、その場にいた全員が一斉に伏せたのも良いシーンでした。
会津らしいというか、容保の生真面目さと決意にうるっとしたワタシです。

で、車輪のもう一方、会津の女たちの話も交互に挟まれてました。
八重さんもお年頃のようで、お友達には縁談があるご様子。

なぎなたの試合がありましたが、皆さん、お上手でした。
実際のなぎなたの試合を見たことはありませんが、緊迫感もありましたし、動きも良かったと思います。
こういうとこでガックリしちゃうことが多いので、今年はそこも良い感じです。^^

八重さんは鉄砲の扱いには長け腕前も良いようですが、だからといって、女が関われる事柄には限界があります。
覚馬を訪ねてきた大蔵たちが、八重は下がらせたのに、他藩士である尚之助は話に加えさせたところなど、上手い使い方でした。

そうそう、新式銃を披露した後、「茶を入れて参ります!」といいつつ、さり気なくというか、当たり前のように尚之助に銃を手渡していたのが笑えました。何か意味があったのかもしれませんが、八重さん、自分で片付けんのかい!(笑)みたいな。

こういう時、その心情を窺うように尚之助がちらりと八重を見るんですが、あーゆーの好きでね、ワタシ。


それにしても、50回もあると贅沢に使えていいですねー。
だからこそ京都守護職拝命までに時間をかけられるわけで、ワタシ、こういうとこ大好きです。

次回「将軍の首」楽しみです。

えーと、いつもと違うパソコンなのでよくわからないんですけど、たぶん、また長文でしたよね。
すみませんです。読んでくださってありがとうございました。(_ _;)





『八重の桜』感想
 1 2 3 4 5 << 6

テーマ : 大河ドラマ - ジャンル : テレビ・ラジオ

『八重の桜』感想  | コメント : 0  | トラックバック : 0 |

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する