「八重の桜」第10回感想

2013/03/10 22:06

「八重の桜」第10回池田屋事件 NHK 2012.3.10放送

面白かったですね~。
ホント、視点が変わると物事の違う面が見えるだけじゃなくて、時間の流れさえも違うものなんですね。

息子が19時50分に帰宅しまして、最初の数分を見逃しました(笑)
どっかりと腰を下ろして夕食が出てくるのを待っている息子に、つい「八重が始まったじゃんか」と言ったら、「あ、ごめん! ごめん! 気がつかなかった。後は自分でするからいいよ」というのでお言葉に甘えさせていただきましたw

佐久間象山が出てきてましたね。
やはり、この人は白馬に騎乗している姿が大変よろしい(笑)勝にもらったという六連発銃も似合います。
止まった時間を進めるのだとか何とか覚馬に言ってたみたいですが。
なんだか一回り小さくなったように感じたのは気のせいでしょうか? 覇気が薄くなったみたいな?
ドラマが始まった当初、黙っていても立ち上っていた気炎のようなものが見えなくなったような。
数年間の蟄居や覚馬が成長したといった要素で変化したようにみえるのか、或いは、役者さんがそうしているのかワタシにはわかりませんけど。

そういえば、オープニングは月毎に変わるんだそうですね。
今っぽい趣向で、面白いんじゃないでしょうか。

さて、今回は池田屋事件です。新撰組(表記が違うかも。今パソコンがクラッシュしてしまって、普段は使わないのを使ってるんでこのまま行きます。面倒くさがりですみません)史では山場のひとつですが。

いくら会津視点とはいえ、会津のことだけ描いていたのでは時代背景が見えてきませんが、その辺上手いこと作っているなぁと思います。
前回まであれだけはばを利かせていた孝明天皇は一度も姿を現さず、武士側の動きを追うことで長州と新撰組、そして会津との確執を描き出していました。

わくわく感なんて既になくて、悲愴感いっぱいの幕末伝。
一昨年じゃなくても一つ前か、の「龍馬伝」とは大違い。
どっちが良いと言いたいわけではなくてですね。
龍馬伝は、上士にいじめられていた龍馬くんたちがそれをばねにして世の中をひっくり返そうとしていったわけで、家族という決して失われないつながりがあったとはいえ、何もかもから自由であろうとした龍馬の魅力が描かれてました。好みの問題はあるとしても、彼は自主的に時流に飲み込まれて行ったわけですから、そこに悲愴感なんてものは存在しませんでした。
もちろん悲惨な事件は数多存在しましたが、基本的にそこにあるのは、ポジティブに、アクティブにそうしたいと思って動いた人間の軌跡なわけです。

でも、今回はそうじゃありません。
会津の武士たちは、時勢の中、何かを為そうと意気揚々と登場してきたわけではなく、会津という磐石の地盤があり、そこに使命感と節度を旨として穏やかに暮らし、それに満足していたはずの人たちでした。
その彼らが時勢という怪物に飲み込まれていく。
受身、というと少々ニュアンスが違ってきますが、彼らはそうしたくてわざわざ京まで上ってきたきたわけじゃなく、求められたから登場してきた人たちなんですよね。
容保公がも少し上手く立ち回れていたなら、会津の立場も変わっていたであろうことは否定できませんが、
彼らは時流が全く見えない愚者でもなく、幕政に迎合していたわけでもなく、自身の信条に従い誠を貫いただけだったのですよね。
容保公の性質と相まって、すでに悲愴感が画面いっぱいに現れています。
時代が移り変わっていくわくわく感とかどこにもないですね。

でも、ピックアップされる人物が面白いです。
西郷や桂、勝、といった有名どころはもちろんはずせませんが、基準はいかに会津と関わったかという点に絞られるわけでして。

新撰組なんて、ほとんどが土方・斉藤でまかなってますもんね。
えーと、最初は芹沢鴨ちゅーのがいたんですけど、一度も出てきませんでしたし、局長である近藤勇もほとんど台詞ないし(笑)。いや、出てますけどね、沖田くんも。

長州だって、桂と真木だけですよね。
あ、ちょろっと高杉が出てきた? 久坂も出てませんよね?
もちろん、まだ龍馬も中岡も出演しません。

時代の見え方ってのは、ホント面白いですね!

ところで、会津の侍たちが江戸武士の見本みたいにかっちょいいのに比べて、こうして見ると新撰組はいかにもあぶれ者ですねぇ。ごろつきと言っても差しさわりがないくらい。
彼らもまた武士に憧れ、武士であろうとしたにもかかわらず、やはり彼らは「まっとうな」武士ではなかった。
いや、会津の武士たちからはそう見えた、というのが正確なところなのでしょう。
浅葱色のだんだら模様の羽織も、いやみじゃないくらいの色合いですが、彼らの目つき、態度、物言いが、礼儀の手本のような会津武士とは大変対照的に描かれてます。

対照的といえば、長州武士と会津武士も対照的ですよね。
八月十八日の政変の時に思いましたけど、長州藩士たちはスタイリッシュなんですよ。
比べて、会津はいかにも質実剛健で、悪く言えば田舎臭い。もっとも、そこが美点として描かれているので、悪感情を持っているわけじゃないんですけどね。

一言の説明もなしにそれが表現できる映像ってのは、すごいなぁと思ったのでした。

さて。元治元年。
新撰組による御用改めにはじまったこの一連の騒動。
うがー、古高俊太郎の拷問やるんですか! と顔をしかめてしまいましたが。
結局は手柄をたてようとした新撰組の暴走という形で、池田屋事件が起こりました。

最前線の兵士の暴走を止められない幕僚たち。
或いは、常に手を知に染めている実践部隊と実際の戦いを知らない士官たち。

そんな構図が幾重にも描かれてましたね。
新撰組と会津藩士として。
会津と幕僚として。

そして結果的に最終絵図である、会津対長州ができあがるわけです。
池田屋の惨状を目の当たりにして、会津藩士たちは言葉を失います。
結果、秋月が責任をとる形で藩政からはずされ、帰郷することになってしまいました。

ですが、あそこで「あれは新撰組の暴走だ」と言わなかったのは、
まあ、実際掌握できなかったという失策であったのは事実ですし、言い訳するのは会津藩士として見苦しいですしね、でも、あの現場を見た者は、新撰組が京の治安を守るというのがどういうことなのか肌身で感じたから、というのもちょっとはあったんじゃないのかな、と思います。

先ほど、新撰組は土方・斉藤だけでまかなわれていると書きましたが(笑)、この池田屋事件ではちょこちょこエピソードが盛り込まれててついつい笑っちゃいました。
長州藩士たちに知らせるためにわざと大声をあげたという「御用改めでございますう~」とか、
新撰組隊士である山崎が前もって刀を集めたというエピは却下したんだなという「刀を抜いて階段を囲む長州藩士たち」とか。
だいたい、あの池田屋の階段のつくりはいかにもすぎて、見た瞬間吹いたし。
最初に二階から落ちたのは、階段落ちの代わりなんだろうか、とか。
鎖帷子着てたのは誰だっけ?
沖田の喀血に至っては感動しました(笑)。
しかも、ちゃんと宮部の自刃を絡めてるし。

でも、あの惨状があったればこそ、その後の会津への手のひらを返したような態度も納得できるし、
ここまできたら兵力を増やすしか会津を守る術はない、という頼母の言葉に説得力がでたと思います。
会津武力への尊敬の眼差しが、恐怖へと、そして憎しみへと変化する瞬間として、この回よくできていたと思います。

そして、会津パート。
長くなっちゃって申し訳ないのですが、ワタシ的には前回とあわせてツボでしたとも!
尚之助と八重のやりとりですね。

この二人がどうやったら夫婦になるんじゃろうか? という疑問もなくなりまして(笑)。

お城へあがると噂されながらも選ばれなかった八重。
新式銃を開発しながらも、藩士でないばかりに取り上げてもらえない尚之助。

やりたいことができない、わかってもらえない悔しさから、自分の存在価値さえも否定してしまうほどに苛立つ。
そんな時に、本人さえ気付かなかった存在価値を示し、あきらめてはならないのだ、一緒に進もう、と励まし支えようとする関係。

ツボでしたねー。
前回の尚之助→八重の時は、信頼関係だったと思うんですよ。
仲間意識みたな、ね。
でも、今回の八重→尚之助で、二人の関係が一気に変わったでしょう。
上手いな、と思ったわけですよ。

今まで尚之助ってずっと春風みたいな風情の人だったから、こんな風に怒ったり苛ついたりするのは初めてなんですよね。
仕官なんてどうでもいいと思っていたけれど、それは覚馬がいればこそであった。
自分ひとりではどうにもならないのだ! と初めて怒りを露にしたでしょう。
その後の八重の言葉に、みるみる表情が和らいでいっていつもの尚さんに戻る、その変化がねぇ。
最後の「八重さん、ありがとう」ってのはいや良かったです。

で、すげーな、と思ったのは。
この八重と尚之助のエピに、新島襄の登場を重ねてきたとこ!
(笑)

おおお、ドラマってのはこうやって作るのだな! と関心してしまったのでござった。^^

ひとつ書き忘れました。
病のため京都所司代(※追記)を辞したいと言っていた容保公。
なんか、まじ具合悪そうなんですけど。どうぞ、お大事に。

※追記
 すんません、容保公なんですから、京都守護職ですよね。うっかり間違えました。 2013.03.14

テーマ : 大河ドラマ - ジャンル : テレビ・ラジオ

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