「八重の桜」第26回感想

2013/07/08 09:09

「八重の桜」第26回包囲網を突破せよ NHK 2013.07.07放送

「200人亡くなったんだって」
職場でそう言われた時、咄嗟に反応できなかった。
この同僚とは意見が合わないことおびただしく、大河の感想を話しても互いに首肯しつつ聞くことはあまりないのだが(苦笑)、原因がそこにあったわけではない。

ワタシは歴史物語は好きだが、一次資料を読み解くのは大変苦手だ。
ワタシにとって資料は、数字であり、記録である。というか、記録でしかない。
そこから、自身で物語の息吹を感じ取るというか、創り出すことができないのだ。

下敷きとなる既存の物語があれば、全く別。
一度自分の中に立ち上がった物語は熱を帯び、実際に存在したであろう人物の人生や時代にあれこれと思いを巡らせる。
勿論、それがフィクションであることは重々承知しているので、どこまでが作者の創作なのかも考慮しつつ楽しんでいる。
この状態になれば、一次資料にある数字の羅列も、ただの記録ではない誰かの生きた証として、足跡を遺す。
歴史はロマンだっ! と目を輝かすのもこの時点である。

要は、想像力はあるものの、創造力に著しく欠ける、という事なのだな。

…前置きが長いが、冒頭の「200人」が想像できなかった、ということなのだ。200人分の生と死が想像できなかった、と言うか。(あ、この200人が妥当かどうかは、今回確認してません。あくまでも同僚の言い分です)
たぶん、幕末会津史を知らなかったワタシにとって、このドラマは根底となる物語になるのだろう。


辛い物語が続く中、7月に入ったことでOPENINGの映像が変わった。
ワタシは幾重にも重なる運命を連想していたのだが、HPの説明によると「一枚の画(え)の中に「同じ物体の異なる一瞬」を掛け合わせるスリットスキャンという手法を使い、生命のスパイラル(らせん)を表現したそうです。」とのことで、とても美しいと思う。(作者は映像作家の伊東玄己(いとう・げんき)さん)


前回、死にものぐるいで入城を果たした八重たちだが、入城できなかった者もおり、その様子が描かれることで物語の幅が増す。
ひとりでも守ろうと長刀を振るう黒河内と同列に、日向ユキは「とばっちり」を恐れかくまうことを拒否される。
誰一人として怨嗟を口にすることのない会津武士の結束の固さが、浮き彫りになる。

この戦いが始まって以来、誰一人として怨嗟を口にしない。
後悔は、あった。
だが、誰も原因を他に求めようとはしていない。

京都の首脳陣の先読みの甘さとか、外交のまずさだとか、ただ悼むことしかできない君主だとか。
もっと言えば、薩長が卑怯なのだ、とか。

どうしてこうなってしまったのか、という苦悩はあっても、その責を他に求めようとする態度がまるでない。
会津武士とは。
武士とはそういうモノなのだと。
それを美しいと思い、自分もそうありたいと思ってしまう。

だが、実はそれこそが会津をここに追い込んだ最大の原因なのかもしれない、とも思う。
起きてしまった事を愚痴らない潔さと、同じ過ちを繰り返さない為の反省とは、紙一重なのかもしれない。

仕事をしていてもよく考える。
誰かに責任をとらせようということではなく、そのミスを繰り返さない為の点検は必要なんじゃないのかと。
だが、それを追求するとどうして特定の誰かが浮上してしまい、うやむやにされてしまう事が多くて。

それと同じような危うさを、武士道の在り方に感じずにはいられない。
いろんな意味で、正論を正論として吐くのは、大変に難しいことだ。


さて、前回の悲劇は白虎隊であったが、今回のそれは娘子隊である。
誉れ高い中野竹子の戦死、そして、神保雪の自刃。
黒木メイサが、凜とした竹子の気性をよく演じている。何より目を引くのは、その涼やかな姿である。

それじゃ、ダメだ。

意気込みは、よくわかる。建前はなく、その気概込みでの長刀の稽古であったろうことは、よくわかる。
平時の稽古ならば、それで良い。
だが、出かける先は戦場である。
どうしたら役に立つことができるのか、と考えれば、女の姿で戦場にでることがあり得ようか。

それが会津武士という、250年という戦いのない時代が生んだ精神美の代償なのか。

女だから。
戦場にたっても、巴御前は助かった。
この、武士という美学が極まった時代に、たとえ戦場にあろうと女の首をとる男があろうか。

だが。
女だから。
受ける恥辱もあるわけで、それは戦場という究極の欲望の場において、避けることはできない。

己の美を通すためではなく、如何に有効に戦うかを優先するのならば、八重の姿は正しい。
彼女たちの決意は美しい。だが、そこには超えることのできない壁があり、それがこの悲劇を招いている。


西郷頼母にも、同じものを感じる。
その言を真に実現させようとするならば、他にもやりようはあったろう。
己と容保の関係性を考えれば、その諌言が受け入れられないであろうことがわからなかったか。
家臣の中で孤立する前に、やらなければならないことがあったのではないか。
相手に折れることを求める前に、己が折れる妥協点をみつけることはできなかったのか。

起きてしまったことを真っ正直に己の運命として受け入れ、決して己を、信条を曲げることなく生きる。

容保も、頼母も、竹子も、みな同じだ。
その中にあって、八重だけが己の信念のために立ち位置を変えた。
その一点が、ワタシはスゴイと思う。

八重だって、いいとこばかりじゃない。
三郎を失った悲しみも理解できるし、相手を憎む気持ちもわかる。だが、鉄砲隊であった三郎だって、普通に考えれば敵を倒しているわけだ。それが負の連鎖であることは、わかるはず。己の悲しみを、当時の価値観の中で断ち切ることができなかった。
当時の価値観、という意味では、女の指揮下に入った男達の方が、ある意味、よほど柔軟であるといえるかもしれない。

それでも、価値観に固執することなく、己の立ち位置を変えることができるというのは希有な能力であると、ワタシは思う。

容保にしても。
その指揮能力の無さは哀しいくらいで、ひたすらに、家臣の死を悼むことしかできない君主である。

だが、翻ってみれば、その「家臣を悼む」という一事が故に、これほどに藩士たちが戦うのであり、こういう藩主を戴いた家臣達は幸せであったのかもしれない。
容保の真っ赤な目を見る度に、そう思えてならない。

ラスト、彼岸獅子での大蔵の入城は、久方ぶりの明るいシーンで良かった。
ワタシはこのエピソードを知らなかったので、ああ、物語が始まった頃の彼岸獅子のあれこれはこれの伏線だったのかと事ここに至って初めて気が付いた。

大蔵、いい男になったねえ。
奥方をむぎゅっするのも、何だか目頭が熱くなった。
八重との再会も、「おかえんなんしょ」「はい」、それだけが心に沁みた。


会津の苦難はまだまだ続くが、来週を待ちたい。



テーマ : 大河ドラマ 八重の桜 - ジャンル : テレビ・ラジオ

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