歴史の狭間のできごと

2014/04/18 01:29

ご無沙汰してしまいました。
プチ鬱&躁状態を繰り返しつつ、人間関係の難しさにへこたれそうになり、ヒッキーになりたいと思ったり、旅に出たいと思ったり。
それでも何とか生きてます。

図書館で「歴史街道」という雑誌を見かけたのですが、特集が「ポーランド孤児を救え」というタイトルだったので興味を引かれて借りてきました。
ワタシは世界史を習っておらず、といっても中学までは普通に社会科(歴史)に含まれていたはずなので、ここまでもの知らずなのは単にワタシが浅学なだけなので、文頭「世界史を…」は言い訳にもなりゃしないんですけどね。^^;
ポーランドの正確な位置とか、歴史とかほとんど知りませんでした。
それなのに、何故興味を持ったのかといいますと、息子の入学式に駐日ポーランド共和国大使という方のご挨拶がありまして、そこで「ポーランド孤児」や「シベリアからの救出劇」というのを知ったのであります。

何だかちょっとびっくりしましてね。
そういう事実があったことにも、亡くなるまで日本に感謝していたというポーランド人の方がいらっしゃったりしたということにも。

ワタシは英語を初めとする外国語を、ひとっっっっつも話せません。
外国にも外国文化にも興味が無く、一生日本で暮らすんだからいいんだもん、と思っていたんですが。

オトモダチに誘われて、クラシックの演奏会に出かけるようになってから、ちょっと認識が変わったのですね。
外国語、話せたらいいんじゃないかな、って。

演奏を聴いた後、受け手として「貴方の発した音楽なり小説なりをワタシはこんな風に受け取ったよ。ありがとう!」と返信するのは必要な事なんじゃないと思うんですよ。受け手の義務…とまでは言わないけど、礼儀とでもいいますか、心遣いといいますか。
音楽家や俳優、作家のような発信者は、たぶん受け手がそこにいなくても発信する人たちなんだろうとは思うんです。究極的には、ということですが。
でもね、誰かが何かを発信したのなら、それに対して「受け取ったよ」というジェスチャーを返すのは、必須なんじゃないかと思うんです。お金払って聴いているんだから聞く権利はあると思うんですけどね、そういう事ではなくて、発信する方だけが表現するのではなくて、受けても表現することは必要なんだと思うんですよ。
受け取ったものが良くても悪くても、「リアクション」をすることは必要だとワタシは思っていて、少なくとも、自分的には受け取ったものがあるのならそれに対する「リアクション」をできる限りしよう、と思っているんです。できないこともありますけど…^^;

あちらにしてみればですね、ワタシのようなど素人のひとりにどんなリアクションを返されようと、きっと固有名詞として受け取って貰えることはないと思っているんですけど、それでもいいんだと思うんですよね。

で、そのリアクションが必ずしも言葉である必要性はないと思うんですが、演奏会の後、並んでサインしてもらったりするとですね、「今日の演奏、とっても素晴らしかったです!」くらいを彼らの母国語、或いは英語?で言えたらいいだろうに、と毎回のように思うわけです。
…毎回思うって事は、毎回できてないって事なんですけどね…(´・ω・`)ショボーン

で、そんなワタシですから当然外国人のオトモダチなんていないわけですよ。
ですから、「世界平和」とか、古代君の言う「地球の幸せは、宇宙の平和があってこそ!」みたいな台詞は、ただのお題目にしか感じられなかったんけどね、オトモダチは違うっていうんですよ。

そこに実際に知っている人がいると、彼らを理解するためにその国の歴史や文化にも関心がでるし、彼らのために「世界の平和」を具体的に祈ることができるよ、って。

いやー、目から鱗が落ちましたね。はらり~と。

この雑誌の記事にありましたが、ポーランドの人が抱いてくれている信頼や憧れと言った親日的な感情は、言葉にしてしまえば「日本とポーランド」なんですが、その根底にあるのは、やっぱり個人と個人のつながりであるわけです。
シベリアで大変な苦労をされた方々が、日本人の支援によって救われた。そして、故国に帰られた後も大変なご苦労をされて今に至るのですが、それでも日本という国を忘れずにいてくださる。

ワタシ達はそれぞれが個人であり、それぞれの事情や個性を持っているわけですが、それぞれの「国」という看板をも背負っているんだな、ということをワタシは初めて認識したのですね。


個人的な付き合いにおいて、「あいつのすることなら信じてみるか」というのがあるじゃないですか。
国と国の信頼というのも、結局はそこなんじゃないですかね。具体的に知っている誰かが信じられるか信じられないか。
政治家という人たちは、ちょっと違うのかもね~? と思わなくもないですけど、でも、きっと基本はそこだと思うんですよね。

入学式という場で、ワタシはそこにひとりの「ポーランド人」の姿を見、話を聞きました。
そこは双方向性のある場ではなかったので、ワタシのリアクションが彼に届くことはありません。
ですが、ワタシは彼の言葉を受け取ったからこそ、この雑誌を手に取り、記事を読んだわけです。
それもひとつのリアクションですよね?

そっかー、ショパンってポーランドの人だったのか…(⌒_⌒; タラタラ とかね。
↑↑↑ 知らんかったのかい! って突っ込んでくださっていいんですよ…。とほほ。。。


発信者の表現に何かしらの影響を受け、受け手がリアクションを取る。
その受け手の表現は、発信者に伝えられる時もあれば、全く別人に伝えられる時もある。
それがコミュニケーションということで、人のつながりというモノなんだろうと思うわけです。

この記事は最後にこう結んでありました。
「かつて窮地に陥った異国の人々に救いの手を差し伸べたときのように、温かく勇気に満ちた心で、今を生きることができているか」

先人の行いは、日本とポーランドをつなげただけでなく、時間を超えてワタシ達ともつなげてくれました。
うまく言葉にできませんが、何かしらスゴイものを受け取ったとワタシは思ったのでした。

よもやま  | コメント : 0  | トラックバック : 0 |

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